MITCH MURRAY氏との一問一答(日本語対訳)

質問項目作成、英文邦訳 : HOT VINYL店主
質問、回答は2006年6月、メールにて
ORIGINAL ENGLISH VERSION

Q1 誕生日と場所を教えてください。 

1940年1月30日、Hove, Sussex, England 
 
Q2 本名は? MITCH MURRAYという名前はどこから?
 
本名はLionel Michael Stitcher。なぜ名前を変えたか分かってもらえるよね!
 
幼少時はマイク、とかマイケルと呼ばれていてね。(ライオネル、とは呼ばれることはなかった。母方の親戚であり、あの有名なロスチャイルド家のMrs Lionel deRothschildからいただいた名だ。) 10代の頃、友人等はMichael Stitcherを縮めて‘Mitch’と呼び出した。ショービズの世界のことを考えて、‘Murray’という名字を付け加えることを決めた。それ以来、すべて‘Mitch Murray’名義だ。60年代後半には、正式な名前として法的に変更したんだ。
 
Q3 最初に影響を受けた音楽はなんでしたか?音楽の教育を受けたことはありましたか?

記憶にある最初の音楽体験は、ビング・クロスビーの「You Are My Sunshine」。幼い頃の、私のお気に入りはこの曲。しかし、本当に影響を受けたといえば、父親から譲り受けた78回転のレコードの数々だなぁ。そこにはGuy Lombardo, Rudy Vallee, Paul Whiteman, Louis Armstrongといったものがあった。30年代の音楽には今現在もまだまだ情熱を持っていて、私のI PODには何百曲も入っているよ。音楽の教育を受けたことはないんだけど、POPソングライターとしては、ぜったいにそれは良かったと思っている。さまざまなセオリーなんていうのは、あんまり知らないほうがいいんだよ。

Q4 あなたが60年代に書いた、皆がすぐに覚えることのできるハッピーなメロディーというのは、他のソングライターと比較した場合、まさに大きな特徴だと思います。そういう特色あるハッピーなメロディーは、誰か特定のミュージシャンに影響を受けたのですか?
 
やはり、30年代の音楽の影響は大きいな。そこでのメロディーや歌詞というのは、ちょっとした傑作揃いでね。ハートがこもっていて、純真で愚直。後には、Johnny Worthという男の音楽に影響を受けた。Les Vandykeというペンネームで、アダム・フェイス、エデン・ケインといった連中にヒット曲を提供していてね。単純ながら強力で、印象深いメロディーを書く才に溢れた男だった。そういう音楽を書こうと心がけた。実際、当時私が彼よりも成功できたのは、単にマーケットが大きかったから。彼はほぼイギリス国内マーケット向けの仕事だけで、世界を相手にはしていなかったんだ。私の初期の仕事に共通することは、‘feel good’のノリ。ピュアなハッピネスと楽天志向。私はレナード・コーエンじゃあないんだよ。
 
Q5 最初の音楽活動とはなんでしたか?
'The Affairs Of Dobie Gillis'という映画を見てギターを買った。月夜に照らされたカヌーの上で男が女の子にセレナーデを歌う場面があって、‘よーし、おれもあれをやるぞ!’と思ったんだ。ギターを買って(£5.00で)、全然弾けないことに気付いた。なんと6本も弦があるではないか!ご存知のとおり、指は5本しかないのに。で、4本しか弦が無いウクレレにトライ。それから、20、30、40年代の音楽のシート・ミュージックを買い漁り、そこのコードを見ながらなんとか音を出すことができるようになった。その後友人等と南仏へ出かけて、ビーチで女の子に‘セレナーデを歌う’というのを実践したんだけど、けっこううまく行ったんだよ!

Q6  一番最初の作曲は何でしたか?それは陽の目を見ましたか?
 
15才くらいのときにギターの弦1本を使っていくつかメロディーを奏でてみたということ以外には、20、21才まで何にもしなかった。私が持っていたシート・ミュージックに、Lionel Newmanの「Again」という曲があったんだけど、あんまり馴染み無い曲だったので、‘こんな感じかな’と思うがままのコードで思うがままのメロディーで歌ってみたんだ。そうしたらもちろん、本家とはまったくかけ離れたメロディーになった。しかしそのとき、自分には作曲の才があるかも、と思ったんだ。そのメロディーに詞をつけて「Hungry Heart」という曲にして、それをきっかけに作曲への興味が噴出。その曲を持参していくつかの音楽出版社を回った結果、あるところが買ってくれてデモまでつくったんだけど、それっきり。まぁまだまだアマチュアな出来だったんだよね。けっこうショックだったけど、そのときは我慢するのみ。
 
Q7 「 How Do You Do It 」について

 - 私の知る限り、この曲で貴方の名前は一躍世に知られるようになりました。が、CHARLIE DRAKEの1958年のシングル、「Splish Splash」の作曲者クレジットに(M. Murray)とあるのを見つけました?まさか、あなたですか?
- 「 How Do You Do It 」はヒットになる、と自信がありましたか?
 
当時の自作曲の中では最高の出来だと思っていたし、大きな期待も持っていた。詳しくは、別項の文章を参照してください(HV店主註:じきにまとめて「How Do You Do It 」についての彼の叙述を紹介します)。「Splish Splash」にはなんの縁も無いよ。BOBBY DARINが歌ってたやつだよね、誰かアメリカ人の手になるものでしょう。
 
- この曲がヒットになる前、リバプールのあるグループがシングルとしてこの曲をレコーディングする、という話は知っていましたか?

ええ、詳しくはやはり別項の文章を参照してください。
 
- ビートルズやジェリー&ザ・ペイスメイカーズのレコーディングには立ち会いましたか?メンバー達との間に、なにか思い出はありますか?
 
いや、自身がプロデューサーだったり演奏者と特別な関係にでもない限り、作曲者がレコーディングに立ち会うということはまずなかったな。「 How Do You Do It 」がbPになってから、ジェリーのために別の曲を書いたよ。「 I Like It 」だね。当初から2ndシングルに予定されていたんだ。ある日、私の出版社のDICK JAMESの事務所に行くと、ジョン・レノンがいてね。彼には何度か会ったことはあった。彼はこう話しかけてきた。‘やぁミッチ。もし次のジェリーの曲もあんたが書くってんなら、ブッとばすぞ!’ 私が‘え、もうジェリーになんか用意したのかい?’と尋ねると、‘うん’と。 ‘は!それならブッとばしたくもなるかもね’と私は言い返した。ジョンが考えていた曲は、「 Hello Little Girl 」。だけど、結局私の「 I Like It 」で行くことになった。
MURRAY - 1ポイント LENNON - 0ポイント
「 Hello Little Girl 」は後にフォーモストがシングル発売して、小ヒットを記録したね。ハハ!
 
 
- 大ヒットを記録した後、あなたの日常でもっとも変わったことはなんでしたか?
 
すべてが変わった。ただし、だんだんと。鼻高々というよりも、気持ち的に安心できたということは、大きかったかな。
 
Q8 その他仕事いろいろ

- ALEXANDER BELLって、誰ですか?曲名にシンガー名が入っているということには、どういう意図があるのですか?
 
ある歌手を見つけてきて、ALEXANDER BELLと名づけたんだよ。あぁ、もう今となっては申し訳ないけど、彼の本名なんてのも覚えていないよ。結局ヒットにもならず、みんなこう言うしかなかった。‘さぁ、次、次’。
 
- フォンタナ・レーベルは、KIKI DEEのデビュー・シングルに、あなたの曲を熱望していたとききました。すばらしい出来の「 Early Night 」ですね。それは本当ですか?
 
あぁ、本当だよ。なんとかこの曲はまずまずの評価を得たんだけど、チャートにまでは至らなかった。あるとき、フォンタナのプロデューサーだったJACK BAVERSTOCKから呼び出されて、‘ミッチ、今日オーディションに来る女の子がいるんだけど、オレはきっと彼女は売れると思う。びっくりするぜ!ちょっと同席してくれないか。いてくれたほうがオーディションもスムースに行くよ。’と。彼女(当時はPAULINE MATTHEWSという名)の歌を聴いた瞬間、私は言ったんだ。‘ジャーック!すごいよ!すぐに契約すべきだよ!’
 
オーディション終了後、3人で昼食をとった際、私はいくつかの提案をした。まず、歯を矯正すること。次に、いい芸名をつけてやること。‘KINKY DEE’というのを考えたんだけど、ちょっと‘KINKY’というのはアヤシかったかもね(‘ちょっとヘンタイちっく、だけどキュート’っていう意味)。結局‘KIKI DEE’に決めた。その頃、私が付き合っていた南アフリカ出身の女の子の名前が‘KIKI’だったんだ。 
 
- あなたの活動初期には、LES REEDといくつか一緒に仕事をされていますね。‘SOUNDS OF LES & MITCH’は、いったいどういう経緯でリリースされたのですか?歌っているのは誰ですか?
 
一緒に歌っているんだよ。まったくサイアクでしょ?2人でデモを作ったら、フォンタナがひじょうに気に入ってくれてね。そのデモをそのままリリースされちゃった。お笑いだね!宣伝用写真ていうのがあって、私がLESに後ろから抱き付いているという写真なんだ。曲のタイトル(「Why Can't We Love」)と並べてみると、まったくキモチワルイもんだったよ。
 
- ‘MISTER MURRAY’名義で2枚のシングルをリリースされていますね。いったいどういうプロジェクトだったのですか?何をしようとしていたのですか?歌っているのは誰ですか?もしあなたが歌っているのだとしたら、すごい上手な歌い手さんですね!
 
おべっかありがとう。あれは全部ジョークなんだよ。とくに歌は。PETER CALLANDERは‘R’を上手に発音できなくて、どうしても‘W’の発音になっちゃうんだ。いつも私がそれをバカにしてお互い笑っていたんだけど、アダム・フェイスも同じ問題を抱えていたんだ。レコードを聴いてごらんよ。ある日、曲書きの仕事が終わって、いつものとおりこのことで笑っていたんだけど、それを曲にしてみようと思ったんだ。出来上がったのは、' Down Came The Wwwwwrrrain! '。こんなおバカにシャウトするのを的確にこなせる奴なんて思い浮かばなかったから、私が自分で歌ったんだ。テレビにも出たんだけど演出には凝った。コーラスが入るまではジェントルに、スウィートに歌うんだけど(あまり上手くないように)、いっぺんに全部がブッとぶんだ。その瞬間、シャワーのように水が降ってきて、私はビショビショになる。歌詞自体にはなにもおふざけが無くてマジメなんだけど、コメディーとしてヒットになった。フランスではアンリ・サルバドールがカバーしたし、イタリアでは‘I GIGANTI’というバンドが真剣にバラードとしてカバーして60万枚を売るヒットにした。しばらくしてからやっぱりイタリアの‘MINA’という偉大な歌手がカバーして、まだまだ売れているようだ。「 Down Came The Rain 」は、私の作品の中で最高に価値ある作品となって、収入面でも大きな貢献をしてくれている。次作「 I Drink To Your Memory 」もまずまず売れてくれたね。
 
- 1965年くらいから、共作する機会が増えましたね。主にあなたは詞よりも、曲を書いていたと解していいでしょうか?私は、あなたの書く短くて簡単なフレーズ、例えば‘HOW DO YOU DO IT’、‘YOU WERE MADE FOR ME’というのは、いわゆるブリティッシュ・ビートの最重要ポイントではないか、と思っています。曲書きに専念するようになった理由はなんですか?
 
私は歌詞も曲も書いたよ。共作の際は、作詞家としても、メロディストとしてもやってきた。LES REEDと曲書きをする場合には、どちらかというと詞を担当することが多かったかなぁ。PETER CALLANDERとの場合はメロディー担当。だけど、いつでも私は詞、メロディーのどちらにでも対応できるくらいの力量はあったと思う。
 
- ‘MURRAY'S MONKEYS’は大傑作ですよ!あなた自身をフィーチャーしたものとしては、最初のものですか?歌っているのもあなたですか?プロデュース作品としても最初のものですか?どんなことでも教えてくださいったら!

ありがとう。あれはいいね、もちろん。初めてのプロデュース作かどうかは、定かではないなぁ。歌っているのはJOHN CARTER。JOHN SHAKESPEAREだね。彼はIVY LEAGUEで歌っていたことのほかに、いろんなグループ名義で仕事をしていた。MURRAY'S MONKEYSは、実在したグループの名前ではない。セッションマンによるプロジェクトだ。リリースのときに私はたまたま仕事でアメリカに滞在していたから、調教されたサルを使ってプロモーションしようとたくらんだんだ。テレビに出して、楽器を弾かせたり、歌っているように見せようとしたり。でも結局、それほど大掛かりなことはうまく行かなかったねぇ。 
 
- ‘MR. & MRS. MURRAY’名義で1枚シングルをリリースしていますね。その当時は、GRAZINA FRAMEさんと結婚されていたのですか?彼女との最初の出会いはなんだったのでしょう?私は彼女のHMVでのシングルを始め、様々なセッションでの歌いっぷりが大好きです。
 
先日、ちょうど彼女にあった際に、君のこの意見を伝えたら、ずいぶんと喜んでいたよ。ありがとう、って言っていた。イエス、当時は結婚していた。ロンドンで家が近くって、2人ともエンターテイメントの世界で働いていたから、お互いのことは知っていた。道でバッタリと出会った65年のある日にお茶して、結婚に至ったんだ。80年代始めに離婚したんだけど、今でも良い友達でいるよ。娘が2人いて、現在はそれぞれ女優、歌手として働いている。GINAはウェスト・エンドのミュージカル‘THE FULL MONTY’その他の多くのショーでリードをとっていて、MAZZ(MARIANNE)は、QUEENのヒット・ミュージカル‘WE WILL ROCK YOU’のKILLER QUEEN役で出演中だ。もう4年もショービズの世界で働いているんだ。彼女らは、2人ともコメディーの脚本も書くんだ。もうすぐ始まるテレビ番組について、現在煮詰めているところじゃないかな。
 
- CLANレーベルについて、どんなことでも教えてください。私は今のところ2枚しかリリースを知りません。MITCH MURRAY CLANのシングル「 Cherokee / Skyliner 」では、あなたの仕事はなんだったのですか?LADY MURRAYのリリースもよい出来だと思います。もっとリリースがあれば嬉しかったのですが!
 
'LADY MURRAY'は、君の想像どおり、GRAZINAの変名だよ。彼女は当時確かにあまりリリースは多くなかったし、クリフ・リチャードのサントラで何枚か歌っていたりしていた。CLANはポリドール配給の私のレーベルだ。CHARLIE BARNETのビッグ・バンド・タイプの曲「 Skyliner 」がお気に入りで、自分でアレンジをしなおして、曲の権利を持つ出版社にお金を出してもらったんだ。彼らは「 Cherokee 」のほうも権利を持っていたから、自然とB面曲として採用されたってわけ。私の「 Skyliner 」は、少なくとも2人のDJの番組テーマに採用されたんだ。TOMMY VANCEとかね。
 
- NATURALSの「 Look At Me Now 」は大傑作だと思います。ヒットしなかったのが不思議です。彼らにピッタリの最高の曲です。演奏が上手です。彼らについてなにか思うところは、またこの曲についてどんなことでも教えてください。
 
嬉しいねぇ、君のその意見は。じつは私も、この曲は‘最高の出来’だと考えているんだ。GRAZINAがもっとも好きな曲でもあるんだ、不思議なことだけどね。この曲の出来にはまったく惚れ惚れとしたよ。デモ・バージョンはJOHN CARTERが歌っていたんだけど、そっちの方がさらにすばらしかったかもね。まぁだけどね、フフ、売れなかったね。あぁまったく。 
 
- MANFRED MANNの「 Rugamuffin Man 」ですが、リリースされたバージョンというのは、あなたが完成させたバージョンとは、ずいぶん違う点があるのではないでしょうか?どうも、あなたらしい曲には聴こえません。デモ・バージョンというのは、どういう感じだったのでしょうか?完成した曲を、どういうフォームでパフォーマーに届けていたのですか?
 
キミは鋭い!確かに、マンフレッド・マンのバージョンと、私のコンセプトとは異なるものでね。私のバージョンというのは、ずいぶんと良い出来だったんだよ。オリジナル・バージョンは、もっとバブルガムっぽくて、そうアーチーズの「 Sugar Sugar 」っぽい感じで。‘Hey...Mr Ragamuffin ’の後の‘Man’というのが付け加えられたんだ。マンフレッドの名字からちょっとちょうだいしたんだ。結局リリースされたものはすばらしい出来でヒットになって、当時はけっこうイカした曲だったんだ。アーティスト側に曲を渡すときは、何通りかあってね。プロデューサーやマネージャーに、時には本人にピアノを弾いて聞かせたり。どこかに、まだ「 Ragamuffin Man 」のデモ・バージョンはあるはずだが。
 
Q9 PETER CALLANDER氏と共作なさることが多かったですね。彼と出会ったキッカケはなんですか?どんな人だったのですか?日本では、彼についてはほとんど知られていなくて、レコード・レーベルでその名を見るだけです。
 
ピーターは音楽出版社に勤めていて詞を書いていたんだ。その多くはイタリアとかフランスの曲だった。ヒットにも恵まれたんだけど、所詮外国曲に詞を乗せるっていうことだけじゃあ、たいした身入りは無かったんだ。ある日、彼から連絡をもらった(当時私はノリノリだったんだよ)。そして、一緒に仕事をしないか、って。だけど不運なことに、彼が当時勤めていたのはROBERT MELLINという男の出版社だったんだけど、その男は以前私とひと悶着あったヤツでね。私はそんなヤツと絡む仕事はイヤだ、と断ったんだ。しばらくして、ピーターはSHAPIRO BERNSTEINという男の下で働き始めたんで、よし、ということになったんだ。すぐに一緒に曲を書き始めて、ヒットも出せるようになった。「 Even The Bad Times Are Good 」とかだね。しかしじきに、私は契約すらしていないのに、SHAPIRO BERNSTEINに大きな貢献をしているばっかりだ、ということが分かって怒ったんだよ。考えたあげく、ピーターに言ったんだ。パートナーシップを解消するようなことはせず、我々は自身の出版会社を作るべきだって。私の家を事務所にしてね。ピーターとしては定職を失うことになるわけで、新しい方向について彼の奥さんだったCONNIEも交えて話し合った結果、私の提案どおりに進めようということになった。そして設立された‘INTUNE’はその後大成功を収める結果になって、彼にとっては最良の選択となった。後々には自身のレーベル‘BUS STOP’設立にまでこぎつけられた。PAPER LACEが代表的なアーティストだった。ピーターは私より3才上で今でも連絡は密にしているよ。お互いPerforming Right Society (PRS)の幹部職にあるんだ。JASRAC、 ASCAP、BMIといった音楽著作権管理組織のイギリス版だね。70年代以来、一緒に書いたことは無いなぁ。私達のような、大きな組織に属さない曲書きがなんとかやっていくには、あまりにも急激に市場が変わりすぎてしまったんだ。ピーターは今でも作詞を続けているよ。以来、私は事実上曲書きは止めてしまっている。おかしなことに、お互いにとって、結果はまったく同じになっているんだ。ムダな曲書きの努力をする必要が無くなった、ということはいいね。
 
Q10  あなたがBUS STOPレーベルの創立者なんですね?レーベルでしようとしていたことはなんだったのですか?
 
前の質問で答えたけど、私が創立したレーベルだよ。(EMIと契約して)レーベルを作って、よりよい収入を得ようと考えたんだ。それより前に、MCAでのTONY CHRISTIEのすべてのヒット曲を書いていたんだけど、もっといいレコード・プロダクションができるのでは、と感じていた。ヒット曲狙いの作曲家にとって、イカした曲を作ったとしてもビッグなアーティストにそれを歌ってもらうことができない、というのはジレンマなんだ。まずは、レコード会社にその曲を提出しなければならないからね。そして名も知れぬアーティストに歌わせて、レコーディングさせて、ヒットを目指さなければならない。ピーターは熱心に私に言っていたよ、「 Billy, Don't Be A Hero 」をクリフ・リチャード、あるいは彼みたいな歌手に歌わせちゃダメだ、自分たちで最適なヤツを探さなきゃ、って。彼の意見はまったくそのとおりだったんだ。結局うまく行って、大きな利益を得ることが出来たよ。だけども、当時のまったくバカげた社会主義的イギリスの税制度のせいで、家族ごとオランダに3年半の間、居住地を移さなくてはならなくなったことは残念だったよ。
Q11 多くの優れたリリースがBUS STOPにはありますが、フレディ・ガリティとピーター・ヌーンのリリースが興味深いです。70年代においても、何か彼らと深いつながりがあったのですか?
 
‘深いつながり’とまでは言わないけど、お互い良く知った仲だった。もちろんフレディーの60年代のビッグ・ヒットを2曲書いていたからね。お互いいいつながりはあったよ。
 
Q12 ご贔屓のフットボール・チームはありますか?BUS STOPはクリスタル・パレスの応援歌をリリースしていますね。マヌケな質問ですみません、だけど、知り合いでフットボール・レコードのコレクターがいて、彼がしきりに‘きいてみてよ’、と言うものですから。
 
そのお友達にはごめんなさい、と伝えておいてよ。フットボールには、まったく興味が無いんだ。だけど前妻GRAZINAは熱心なファンで、マンチェスター・ユナイテッドを応援している。ピーターはアーセナルのファンだ。私はフットボールより、どう考えても女性のほうがいいなぁ。RIO FERDINANDなんてヤツよりも、女性のほうがカワイイに決まっている。ヘンなシャツを着込むなんてまっぴらゴメンだね。 
 
Q13 曲を書くときはピアノで?ギターで?
 
最初はウクレレ、そしてピアノを使うようになった。だけど、まったく私はミュージシャンじゃないんだよ。コードをかき鳴らすだけなんだ。
 
Q14 もっとも最近の音楽活動はなんですか?近々の活動の予定はありますか?
 
もうずいぶんと曲作りからは離れている。状況がよくなりさえすれば、いつでも再開する心構えはあるんだけれど。将来的にも、現在は何も考えていない。 
 
Q15 作家活動を始めるようになったきっかけはなんですか?曲作りと何か共通する事柄はありますか?
 
90年代に入ってからスピーチの草稿を書くようになった。そうするうちに出版社から結婚式でのスピーチ集を出さないか、とアプローチされてね。それが始まりだった。ポップ・ソングと、ひと言で言えるジョークには似たところがあるんだ。ごく短時間の間にインパクトを与えなければならないこと、そして聴衆、読者をいつも驚かせなければならないことだ。
 
Q16 ご自身の作曲された曲の中で、もっともお気に入りの3曲を教えてください。
これは難しい質問だなあ。自分の子供たちの中から、誰か1番好きな子を選べ、と言われるみたいだよ。(売れなかったけれど)「 Look At Me Now 」以外で言えば、「 I Like It 」、「 You Were Made For Me 」には愛着がある(必ずしもレコードとしてではなく、曲として)し、「 I Did What I Did For Maria 」、「 The Night Chicago Died 」もなかなかだと思う。だけど、売れてナンボの作曲家としては、その人のキャリアのなかでその曲がどれだけの重要度を持つか、ということに重点が置かれるべきだと思う。ということからすると、「 How Do You Do It 」は私にとって最初の1ヒットでこの仕事でやっていけるという自信を得ることが出来た曲だし、「 The Ballad Of Bonnie And Clyde 」はしばらく泣かず飛ばずだった後の大ヒット曲でドラマティックでよくできた曲だし、「 Billy, Don't Be A Hero 」もまったく同じ理由で重要な曲だね。

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